残り香 …前編…

 

 

 

寒い寒い冬の日のこと。

「レジ、良いですか?」

駅前のコンビニの一角、陳列棚に商品を並べているときに
すらりとした体型の男とも女ともつかないその人に声を掛けられた。
黒いスーツをかっちりと着込んでいる。

いつもこの店に来るけれど、この人の会計をしたことは一度もない。
今日は皆昼食で出払っている時間帯だ。

パンを並べる手を休めて、軽く会釈をする。

「すみません、今行きます」
「あ、申し訳ありません。ありがとう」

もう一度言葉を紡いだときに確信する。
すこし掠れた穏やかな声 そのときに見えた喉仏。
男性である、と。

彼は色素の薄い澄んだ瞳を細めるとレジの方へ歩いてきた。

 

レジを打つために深紅のくせっ毛の少年はカウンターへ入る。
頭髪と同じ色の瞳に名も知らないその物腰穏やかな青年が移りこんだ。

綺麗

そう思ってしまったことにハッとして、少年は買い物かごを手に取る。
少年の名札には「藤原」と書いてあった。

彼は、藤原 湛増。名前が気に入らないからヒノエと名乗っている。

 

「105円が一点 280円が一点、……えっと……389円が一点……」

読み上げていく声に青年はにこにこしながら待っている。
ふとかごのなかの可愛らしい商品がヒノエの目にとまった。

 

いちごみるく

 

「……」

コイツが飲むのか?ヒノエは少し想像してクス、と笑った。
清楚で綺麗で、かなり大人と見受けられる彼が
薄桃色のパッケージの いちごみるく。

「1240円のお買いあげになります」

ヒノエがマニュアル通りに金額を読み上げると、青年は品のいい革の財布から5000円と40円を取り出して
ヒノエに手渡した。

「……この店、今は君しか居ないんですか?」
「え?……あぁ、そうですねー、みんな昼食抜けしてっから」

青年より一回り小さな白い手が がさがさ、とビニール袋に商品を詰めて手渡すと、青年はヒノエに笑いかけた

「そうなんですか……忙しいですね」
「ん?あ、あぁ……」

あまりにも綺麗で、品があるその微笑み方に目を奪われて
ヒノエは返事が曖昧になった。
客に対してこれはなぁ、と自分でも反省する。

釣り銭を手渡して、レシートを渡す。

「そういえば、先ほどなにか笑っていましたが……なにか?」
「あ」
「なにかありましたか?僕の顔に何か付いていましたか?」

まずいな、と青年は自分の頬に手を当てる。
違う違う、そんなことしなくていいって。
何も付いていないし、そのままで充分綺麗だ。

「いや、あの」

何も言えずにヒノエはしどろもどろになる。
その様子に青年はもう一度笑った。

「ふふ、なんですか?言って下さい」
「……いちご、みるく… お客様が飲まれるんですか」

笑いを堪えてヒノエは答える。
こんな失礼なこと言って良いはずない。
店長にバレたら即刻クビだろう。
が、しかし、青年は怒る様子もなくそれに対して笑った。

「僕以外誰が飲むんですか?ふふ、残念ながら妻も子供も居ないんですよ」

残念も何も。

「ちょっと最近疲れが溜まって、甘い物が飲みたくて」

結構美味しいんですよね。と彼は笑った。

「は、はぁ。……なんか失礼なこと言ってすみません」

ヒノエは慣れない敬語と慣れない態度を使うのに
ギクシャクしていた。
それを察したのか、彼はもう一度笑いかける。

「君、この仕事に疲れてますね。敬語に慣れてないみたいですよ」
「……あ」

「僕には楽に接してくれて結構ですよ」
「そう言うわけにはいかないんじゃ」

その言葉を遮って彼は続けた。

「君は面白いですね。なんだか他人に思えませんよ。
 僕は、武蔵坊弁慶です。君の名前を聞かせていただいても良いですか?」

一方的に弁慶は話を進める。
けれど、ヒノエは嫌な感じがしなかった。
緊迫感のなかだけで生きなければならないこの町で、唯一
気軽に話せる人が出来たのかと思うとほんの少しだけ嬉しかった。

「俺は、ヒノエ。藤原 ヒノエだよ」

「また、立ち寄らせて貰いますね」

「ああ。ありがとうございました」

ヒノエは軽く礼をする。

なんだかんだ言ってマニュアルが身体に染みついてしまった自分を嗤うと、
弁慶はそれに合わせてにっこりと笑った。

「もっと、肩の力を抜いて」
「あ、あぁ」

 

 

それから、何ヶ月たっただろうか。
その間にも何度となく弁慶は買い物に来た。

あの日のように昼間に来ることもあれば、夜遅くに来ることもあったし
早朝にくることもあった。

コイツの活動パターンは本当に解らないな。
ヒノエは小さくため息を付く。
随分話もした。

上京してきて学費を稼ぐためにここでバイトしてることや
高校に行けなかったから大検とらなきゃいけないってこと

家は結構近いってことや
まだ17だから、お酒は飲めないってこと。
それから、今まで付き合った女の人数。

他愛もない話だった。

仲良くなったと思うけれど

 

俺はアイツのこれっぽっちもしらない。

 

 

 

雪は次第に解け初め、外気は春の香りになっていた。
暖かい陽光に照らされ、コンビニのウインドウは乱反射する。
人気のない午前十時のコンビニ。

今日は、来ないかな。

 

そんな風に考えてしまう自分が女々しくてヒノエははぁ、とため息を付いた。

最近は会ってないよなぁ、とつい思ってしまう。

今日の帰りは夜八時。
少し早めだ。ほとんど雇われ店長、って感じ……。

それまで退屈だなぁ。

ヒノエはポケットから出した頭髪に近いワインレッドの携帯電話の着信履歴をあさった。
そういえば、弁慶のアドレスも電話番号も知らない。

ココにいれば会えるから。

でも、いつ会えなくなるともしれない。
ヒノエがバイトを止めればそれまでだ。 

それって、結構寂しいかも。

 

そんな風に考えてしまう自分がまたも女々しくて、ヒノエはカウンターの壁にごつんと後頭部をぶつけて
また大きくため息を付いた。

 

会いたい

 

外は色が移り変わり、白から蒼へ 蒼からオレンジ 紅
そして、紫、藍色。

ぼんやりしているうちに日なんてとっくにくれてしまう。
業務時間も終わり。交代だ。
ヒノエは業務のエプロンを外して控え室の段ボールの上にぽん、と置くと
早々に帰宅しようと店を出た。

「お疲れさんでしたー」

コンビニから出て約三分。
マンションが見えてきた。狭いマンション。
日当たりは悪いし ちょっと古い。
それがヒノエの家。

ああ、やっと家だ。
やっとっていっても、本当に歩いて十分未満の距離だけれど。
ようやく立ち仕事から解放されて眠れる。

と、思ったそのときだった。

 

解けたと思った雪は夜の冷え込みの所為でスケートリンク並のアイスバーン。
それに、足を取られた。

転ぶ。

そう思ったとき、右二の腕を上のほうに誰かが強く引いた。

 

「べ」

「大丈夫ですか?」

「弁慶……」

間一髪。
アイスバーンにアタマやら腰やらぶつける前に
彼が引き上げてくれたのだ。

 

「おひさしぶりです」

懐かしい声だった。といっても二週間やそこらなのだけれど
ヒノエには懐かしくてたまらなかった。
彼は掴んでいた腕を放し、優しく手を握ってくれる。

「怪我はないですね?」
「あ、ああ。……ありがとう」

良かった、と彼は微笑む。
その柔らかい表情につられて、ヒノエも笑った。
が、直後彼は激しい咳に苦しむ。

「弁慶!?」
「……ぅ……っ、すみませ、……っ」

肩で息をしながら、軽くヒノエにもたれ掛かる弁慶に
少なからず動揺した。

「おい、どうしたんだよ、弁慶?」
「……っ、は… 情けないですね」
自嘲の笑みをこぼして、弁慶は口を押さえてまた咳を繰り返す。

ヒノエはあることに気づいた。

体温が若干高い。
風邪、もしくは、寝不足?過労……。なんにせよ危ない。

「おい、弁慶アンタ……家どこだ?」

運ばないと。そう思って尋ねる。

「二駅先です」

まにあわねぇ。

 

「こっから少し行くと俺ん家だから、とりあえず来い。あんた、もたない」

弁慶の細く整った左腕を自分の肩に回し、ヒノエは弁慶の身体を支えながら
自分の家へ向かって歩き始めた。
弁慶は足取りはおぼつかないもののヒノエへの負担を軽減しようと必死に歩く。

「……すみません、本当に」
「無理しないで、いいんだぜ?もう少しくらいなら俺、大丈夫だし」

マンションにつくとヒノエは左手でポケットの鍵をまさぐり、ロビーの鍵を開ける。
エレベーターで三階。三階の突き当たりの部屋の鍵穴に鍵を差し込んで器用に回す。
片手がふさがっているだけで随分不便な物だ。
ヒノエは部屋の明かりをつけると、自分の折り畳みベッドをばこん、と開いてそこに弁慶を座らせた。

「とりあえず、散らかってるけど適当にくつろいでいいからさ」

あ、病人がくつろぐってのも変だよな。
と、ヒノエは首を傾げる。
その様子を見て、弁慶は弱々しく笑い、答えた。

「……有り難うございます」

「てか、あんた、風邪?」

ヒノエは不意に病状についてきく。

 

うーん、と弁慶は顎に手をやって答えた。

「ちがう、かな」
「ん?」

「僕、寝不足が続くとこんな風に体調崩しちゃうんですよ」

もともと体が弱いのかな。困った物だ。と弁慶は笑う。
その目の下にはうっすらとクマが浮かび上がっていた。

「あ、のなぁ!笑い事じゃねえだろ!」

ヒノエは思わず怒声をあげた。
弁慶は驚いて目を見開く。

「あ、いや……その。病人相手に大声あげてゴメン」
「……」

ヒノエは右手で口を覆って顔を真っ赤にして背け、続ける。

「その、さ、心配だったんだよ」

その様子に弁慶はにっこり微笑むと、答えた。

「いいえ、僕が不謹慎でしたね。ありがとう……ヒノエ」
あまりにも綺麗に笑う。
ヒノエはこの顔が大好きだった。
初めて出会ったときもこんな風に柔らかく、まるでなにかの魔力のように
気持ちを引き寄せる笑い方をした。

「あ……な、なんだよ、礼なんて、いらないって」

ヒノエは照れ顔で手のひらを顔の前でぱたつかせる。
その様子に、弁慶はまた笑った。

可愛らしい。

「と……、とりあえずあんたさ、休息取った方が良いよ。俺、別に一人暮らしだから
 一人くらい人増えても全然大丈夫だし、今日はそこで休んできな?適当に飯とかも作ってやるよ」

「いえ、しかし……っぅ……」

弁慶が急に呼吸を乱す。
また激しい咳を繰り返し、胸を押さえる。

 

「ほら、言ってる側からさ。あんた、一体どういう仕事してんだよ。
 過労じゃねぇの?……訴えていいくらいじゃん、そんなの。マジありえねぇよ」

ヒノエは涙目で弁慶の背中をさする。
弁慶は不甲斐ない、とばかりに首を振る。

「……本当にごめんなさい」
「謝んな」

俺があんたを助けたくてやったことなんだから
あんたが謝る事じゃない。ヒノエはそう言う。

弁慶は笑ってこたえた。

「君らしいですね」
「?」

「いえ」

弁慶はそのままベッドに横になり、目を閉じる。
ヒノエはキッチンに向かってなにかカタカタといじっている。

 

何の音かな

 

「弁慶」

「……はい」

「粥」

ヒノエが差し出したのは小振りの鍋に入った白粥。
透き通る香りが湯気になってふわふわと漂っている。

「……ヒノエが?」
「粥くらい、作れるっつの。ほら、食えよ。あんた、体力落ちるぜ」
「あ、……はい、ありがとうございます。では、いただきますね」

木製のスプーンに唇を当てると、ほのかな塩味が口に広がる。
白粥独特の白湯のにおい。
懐かしいような切ないような感覚に弁慶は少し酔っていた。

「食えなくは……ないよな?」
「とんでもない。とても、美味しいですよ」

にっこり、と笑う。

ダメだ。この笑顔にはホントに敵わない。
麻薬のように 脳に響く。 心臓の奥の奥の方が熱くなる。
喉が 苦しい

「ヒノエ?」
「え?」
「どうしたんですか?」
なんだかぼんやりしていましたよ。弁慶はそういって不安げにヒノエの顔をのぞき込む。

「なっ、ど、どうもしないよ」
「ならばよいのですが……」

そう言って、弁慶はごちそうさまでした。と鍋を返す。
直後、こほこほと軽い咳をした。

「おい、やっぱなんか辛そうだぜ?咳止めでも買ってくるか?いちごみるくとか買ってくるか?」

まるで風邪を引いて寝込んだ小学生に母親が掛ける言葉のようだ。
弁慶はクス、と笑った。

「やっぱなんか買ってくるぜ?」

テーブルのうえに置いた鍵を取ると、ヒノエは出かけようとコートを羽織る。
その手を弁慶が制止した。

「待って」
「え」

弁慶の冷たい手がヒノエの手を握る。

「……?」

「側にいて欲しいんです」

その言葉を聞いた瞬間、ヒノエの顔が熱くなる。
体温が上がっていくのが解る。

「ど……どういう……」

「君と……離れたく ない」

「っていってもよ、あんた辛そうだし……やっぱ早く治って欲しいし」

ヒノエは思案顔で俯く。
その顔が 愛らしい、と思った。
弁慶は自分の具合の事なんてもう気になっていない。
確かに身体は思うように動かないし、本調子じゃない。

「……じゃあ、ヒノエ。ひとつだけ。僕の我が儘をきいてください」
「……なんだよ」

ふと弁慶は切り出す。
ヒノエは顔を上げる。
その唇に、弁慶は軽く触れるだけの口づけをした。

「ちょ、おっま……なにすんだよ!!」

ヒノエは突然のことに動揺を隠せなかった。
怒声をあげ、その後
拭うことはせずに指先で軽く自分の唇をなぞる。

今 なにされた?

「こうすれば、治ると思って」
「は!?」

「大分気持ちが落ち着いてきました では、おやすみなさい」

「え!?」

ヒノエが必死に抗議しよう、と思った矢先
弁慶はベッドに倒れ込んですぅすぅと寝息を立て始めた。

なんて都合の良い。

 

「……畜生……」

完全にこいつのペースに乗せられてる。
でも、イヤじゃない。なんなんだろう。

むしろ心地良いとさえ思ってしまう。

ヒノエはテーブルに突っ伏して弁慶の寝顔を見ていた。
安らかで、それでいて芸術品のように美しいかんばせを見ているうちに
ヒノエもだんだんと微睡んでやがては寝息を立て始めた。

 

 

 

翌日。
先に目を覚ましたのは弁慶だった。
ふとテーブルに目をやると毛布も掛けずに薄着のまま突っ伏して眠っているヒノエが目に入った。

「……悪いことをしてしまったかな」

自分の着ていた毛布をばさ、とヒノエにかけると、弁慶はキッチンへ向かう。
余り物で、何か出来ないかな。
冷蔵庫を見ると卵が3つ。

勝手に使うのも悪いけど
このままだと起きる気配もない。

とりあえず

 

「……べん、けい?」

ヒノエは毛布に残るかすかな弁慶の柔らかい香りで目を覚ました。
ベッドの上にいるはずの彼が居ない。
キッチンに目をやると、皿にオムライスをのせた弁慶がこちらへ来るのが見えた。

「……病人が、なに、してんの」

「君のおかげでもうすっかり治りました。お礼と言ってはなんですが朝食を。
  オムライスは食べられますか?勝手に冷蔵庫にあった物で作ってしまいましたが……」

「あ、いいっていいって……その、ありがとな」

ヒノエは礼を言った後で時計を見て青ざめる。

 

「げッ。やべえぇえ」

「どうしたんですか?」

「バイト……」

今日は早朝六時からだったのに。
時計の針は無常にも七時半を指していた。

時間的にもう間に合わない。
間に合っても叱られる。
何の連絡も無しに遅刻なんて、有ってはならない。

弁慶はああ、と手を叩く。

「それなら、連絡入れておきましたよ」
「え?」
「今日はやすみます、って」

「ええええええええええ」

電話帳の横にあった「バイト先」と書かれたメモ番号に、弁慶は電話をかけていたのだ。
「店長、なんて?」
「あ、体調不良と言っておきましたから心配してました」

しゃあしゃあと言ってのける態度にヒノエは呆気にとられる。
なんてこった。
1日分のバイト代が!

「へっくしっ」

そんな矢先ヒノエから小さくくしゃみが飛び出す。

「っくし、……っうぅ」

もう一回。
寒気がする。

「ほら。毛布を掛けないで寝ていたから」
「……なるほどねぇ……」

ヒノエは妙に感心しながらオムライスをほおばる。
普通に 美味しい。

「あ、そうだ弁慶」
「なんですか?」
「アドレスと番号教えてよ。連絡取れなくて困ってたんだ」

その言葉に弁慶は嬉しそうに笑う。

「おや、そんなに僕に会いたかったんですか?可愛い人ですね」
「バッ……や、……うん、そうだけどさ……」

否定は出来ない。
会いたかったのは事実であるし、寂しかったのもまた事実である。

「ハイ。これで良いですか?」
弁慶はメモにサラサラとアドレス・番号を書き記して
ヒノエの目の前に置く。

繊細で、綺麗な字だった。
走り書きでこんなに綺麗。

「ありがと。あとで、送っから」

「わかりました。では、僕はそろそろ仕事もありますので」

ヒノエは驚いて目を見開く。

「え。こんな朝早くから」

「正確に言うと違うかな。まあ、約束が入ってるんですよ」

弁慶は髪を掻き上げ、気怠そうにため息を付く。
そして、コートを羽織って軽く手を振った。

「夜、またお邪魔しても良いですか?……君の身体が心配です」

「え……うん」

夜まで、働くのか。
ヒノエは少し寂しく思った。
風邪を引いているせいで、体がだるい。
そこからくる熱と 重さで、心細い。

けれど

来てくれるんだ

心強い。
心をかけてくれている。それだけで嬉しくて顔がほころんだ。
全くどうかしている。
長年の友人というわけでもないのに。

 

 

 

まだ白い空の下、弁慶の薄手の黒いコートがはたはたと風にはためく。
ぬるむ気温に足下は雪解け水で歩きにくい。

「……」

面倒くさいな。そう思いながら弁慶はコートの合わせを狭めた。

向かう先は、四駅先の医大。
そう、彼はこの大学の三年生だった。
白い校舎広大なキャンパスに、繊細なオブジェ。
有能な教授達

何処をとっても完璧だ。 浪人してまで入学して良かったと思える。

面倒くさいのは、授業でも講義でもない。
 女

「弁慶さん、おはようございます」

おずおず、と声を掛けてくる女性。

「弁慶っ、おはよー!」

元気に声を掛けてくる女性。

と、まあこういった具合に 弁慶は酷く女ウケがよく
今までに何度と無く合コンだのなんだのと誘われてきた。
しかし、そんなことをしているほど暇でもないので全て断っている。
一部の男性陣には「ノリの悪いヤツ」と嫌煙されているが
別にそれでも構わないと思っていた。

当たり障りのないように、全て適当に笑顔で返す。

「おはようございます」

電車の中でかけた眼鏡の奥でにっこり、と笑う。
さほど目が悪いわけではないが眼鏡を掛けることにしている。
眼鏡を掛けているといろいろ言い訳がきくからだ。

何かあって面倒事をさけるにしても
「すみません。目が悪くて……」
と微笑みながらフレームに触れれば
大体の人は深く追求などしてこない。

 

「ねえ、弁慶さん。今日講義が全部終わったらみんなで飲みに行かない?」
上品に髪を巻いた女性が声を掛けてくる。
それに対して弁慶は柔和な笑みで答える。

「すみませんが、先約があるので」
「え、あらら〜?もしかして女の子?」

白いコートを羽織った女性ははやし立てる。

「いやだな……、冷やかさないでください。家族ですよ」

口から出任せを吐く。

「へぇ、孝行なのね……偉いわ。私も見習わなくちゃ」
ショートヘアの理知的な女性は感嘆の声を上げた。

違う。

家族なんかじゃない……。

弁慶はクス、と笑う。
よくもまあみんな上手く騙されてくれるな。

「それじゃあ、もうそろそろ行かなくてはならないので」

弁慶は軽く会釈をすると足早に自分の学科の校舎へと消えていく。
それを女性陣は憧れの目で見つめていた。

正直 鬱陶しい

弁慶はどす黒い感情を抑え、ノートやら参考書やらをばさばさと机に広げた。
そのとき、携帯のバイブレーションが起動する。
弁慶の黒い携帯がメールの着信を知らせた。

何の手も加えていない簡素なフォルムの携帯電話を開くと、
見たことのないアドレスからだった。
しかし、すぐに送り主が解る。

『To・弁慶

 ヒノエです  届いた?
 なんか、忙しいときにごめん。一応、送るからな 』

短いけれど精一杯気を配ったとみられる文面。弁慶はうれしさに顔がほころんだ。
すぐにメールの返事を打つ。

『To・ヒノエ

 届きましたよ。有り難う。
 僕のことを気遣ってくれるんですね。嬉しいです。
 気軽にメールしてくれて、構いませんからね。待っています  from弁慶』

 

ヒノエの紅い携帯電話が鳴る。
流行曲をオルゴールアレンジした物だ。
可愛らしく鳴る曲を遮ってヒノエは携帯電話を開いた。

弁慶からのメッセージを見て、小さく笑う。
あいつらしいや。

なんだか眠たくなってきた。
熱の所為だろう。ヒノエはそのまま布団の暖かさにくるまれてうつらうつらと眠りに落ちていった。

なんだろう。この毛布 

 

あ 

 

……アイツの香りがする。

 

今頃 なにしてるんだろう

 

 

 

 

 

NEXT→