残り香 …後編…

 

 

日は暮れ、だんだんと寒さは増してくる。
講義を終えた弁慶はコートを羽織り、キャンパスを後にする。

向かうは歓楽街。
それは弁慶のバイト先。

「弁慶君」

中年女性が声を掛ける。
約束の場所

「お待たせしてしまいましたか?すみません」

「いいのよいいのよ。会えるだけで嬉しいわ」

 

歓楽街の隅にあるホストクラブ。ここが弁慶のバイト先だった。
稼ぎは申し分ない。仕事だって笑顔を張り付けて接すれば女はコロリと落ちてくれるので
大したことはないし、サービス業も性に合っている。

ただ、辛いのは女の香水のにおいと化粧品の臭いだ。

『……咽せる』

弁慶は小さく咳をしてそう思った。無論口には出さない。

腕を組み、店までの道を歩く。
苦痛でしかない。
若い女ならまだしも中年女は本当によく喋る。

飲んで、話して。

 

 

 

 

一方、ヒノエは刻々と迫る寒さに身を縮めて暖房のスイッチに触れた。
かち、と軽い音がして、暖かい空気が流れ込んでくる。

この寒さは外気だけではないんだな。とヒノエは思った。
風邪だし、仕方ないんだ。

でもそれだけじゃあない。そんなことにもとっくに気づいていた。
認めたくはなかった。
けれど、勝手に右手は動いて携帯のメール機能を開いている。
指が勝手に動いて宛先を 弁慶 にする。

『To.弁慶

 今、どこにいんの?もうそろそろ9時、回るぜ
 来るなら早く来いよ 俺、なんか眠くなってきた   fromヒノエ』

またも勝手に指が動いて送信ボタンを押す。

ああ、こんなことメールするつもりじゃなかったのに。
来なければ来ないで良いと思ってたのに。

ねえ、どうして?

 

弁慶の携帯のバイブレーションが起動する。
しかし、勤務中。
ポケットの中の携帯を、弁慶は触ることが出来なかった。

『ヒノエ、かな?』

少しだけ、ヒノエの顔が脳裏をよぎる。
横には頬を染めてぺらぺらと話を進める女
腕にすがりつく女。
向かいに座るのはNo.2の男。弁慶を嫉妬の目で見ている。

いやだなあ、お金が貯まればすぐにやめるのに

『……ヒノエ』

無意識に小さくため息を付く。
そのとき、男に舌打ちをされた。

客が居るときにため息つくんじゃねえよ

明らかに目がそう言っていた。

弁慶は慌てて愛想笑いをする。
いけない。 

僕としたことが。

 

さあ     ど う や っ て き り ぬ け よ う か な 。

含み笑いをする。
向かいに座っていた男は密かに目を見開いて後ずさった。
おや。そんなに恐ろしい顔をしただろうか

 

「ちょっと僕、物を取りに行ってきますね」

「え?弁慶君?」

「花のように可憐な貴方に、花束を持ってきたのですが
 貴方の美しさに花達が恥じらったのでしょうか、控え室に残らせてしまったんです」

遠回しで回りくどい口説き文句を吐く。中年女性は何故こんな台詞にやられるのかと
不思議でしょうがない。
今日の台詞は少し下手だなと自分で思った。
きっと脳内を占めているのは仕事ではなく愛らしい彼であるからだ。
弁慶は自嘲の笑みをこぼした。

「けれど、貴方の美しさはやはり花があればより引き立ちそうですね 持ってきたいと思って」
にっこり、と極上の笑みを見せる。
これだけで金を取れるのではないかと思うほどだ。
たちまち女性陣の顔は真っ赤に染まる。
そして頬を手のひらで押さえながら女性は答えるのだ。

「ありがとう、弁慶君 嬉しいわ」

数人は涙目になっている。

 

……なんと単純なんだろう。

さあ、あとは上手く術中に嵌ってくれよ?

 

 

弁慶はソファから立ち上がり、控え室の方へと足を向ける。
席から離れたその瞬間、いきなりふらり、と頽れた。

どさ、と人体の倒れる音を響かせる。

一気に店内はざわつく。

弁慶の真っ白なスーツが、深紅の絨毯に映える。
たおやかな髪の毛は散らばる。
長いまつげは伏せられ、柳眉は苦しそうに寄せられる。

ナンバーワンの彼が 倒れた。

 

その事実に皆が驚く。
悲鳴が上がる。

「弁慶君!?」

「弁慶!おい、どうした!」

ふ、と目を開き、弁慶は弱々しく上体を起こして微笑んだ。

「すみません、……目の前がいきなり眩んでしまって。貴方の美しさですか?」

近くにいた女性にまたもそんな台詞を吐いてみせる。
女性は頬を紅くしつつも答える。

「やだ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ?もう、大丈夫なの?」
「ふふ、すみません。優しい人ですね。……すこし無理をしたようで……貧血ですからご心配なく」

その言葉に店内は更に騒然とする。

「帰った方が良いわ!弁慶君」
「そうよ、寂しいけれど、私たちみんな弁慶君が大切だから!」
「身体大事にしなさいっ」

「いえ、しかし、……せっかく皆さんと楽しい時間を」

わざとらしく悲しい顔をしてみせる。

「楽しいとおもってくれてるの?嬉しいけれど今日はダメよ弁慶君」
「また元気になって会いましょう、ね」

ああ、女性とはなんと優しくそして純粋で

騙され易いんだろう

こういうところは大好きだ。扱いやすい。

「……そうでしょうか」

愁いを帯びた瞳で見つめる。
トドメだ。

「はやくかえって、休んで!」

全員口々に言う。
ああ、有り難い。

これで早引きできる。

 

控え室に戻ると着替えてコートを羽織り、足早に店を出る。
ポケットの中の携帯を覗くと先ほどのバイブレーションの送り主が解った。

ああ、やっぱり

「ヒノエ……」

時計は当に10時を過ぎている。

今から行っても許してくれるかな。

 

 

 

---------眠れない

身体が酷く火照っている。
何か冷たい物が欲しい。

なんでもいいから

「弁慶……」

何処に居るんだよ 返事もよこさないでさ

小さく呟く。
先ほどから何度携帯電話を開いたり、閉じたりしたかしれない。

来ないのかな。

……来てよ。

来て 助けて。 早く。

 

ごほごほとせき込む。いよいよ本格的に熱が出始めたのだろうか。
ヤバイ ヤバイ ヤバイ ヤバイ ヤバイ ヤバイ。

「……っう」

寝返りを打つと風邪独特の関節痛が走る。
痛みに思わずうめき声を上げる。

 

そんなときだった。

 

ピンポン。

 

ひとつ、チャイムが鳴った。
ひかえめに、一つだけ。

慌てて飛び起き、玄関へ走る。
こんな元気何処に残ってたんだろう。

「弁慶……っ!」

ドアを開くとそこには呼んだ名前の通りの男が居た。
ドアを勢いよく開けて自分の方へ倒れ込んでくるヒノエを彼は優しく抱き留める。

「ヒノエ……ダメですよ。相手も確認しないで」
「こんな時間に来るの、あんたくらいだろ……っ」

とりあえず部屋に入りましょう、と弁慶は促す。
玄関で靴を脱ぐと、弁慶はヒノエの額に唇をあてた。
外気に晒されていたのに、弁慶の唇はしっとりとしている。
手入れが行き届いていて、まるで女性のように細やかなケアが成されている。
ひやりとした感覚に、ヒノエはそれが唇であったことを忘れていた。

冷たい。大分楽になる

「酷い熱ですね」
「はは……別に、どってこと……な い。っていうか」

酷い熱だとしたらアンタのせいだな。とヒノエは笑う。
皮肉めいた台詞に、弁慶は笑って答えた。

「おやおや、僕に焦がれて熱を上げてしまったんですか」

その台詞にヒノエは紅かった頬を更に紅く染めて反論する。

「違っ、おま ほんっと調子ンのんなよ!」
ヒノエは弁慶の胸ぐらを掴む、が、熱のせいか上手く力が入らず、それは弱々しく
弁慶に縋るようにまとわりつくだけだった。
その手をそっと握って弁慶は囁く。

「でも、寂しかったでしょう?顔に書いてます。 寂しかった って」

「……っ」

弁慶の声がヒノエの耳をくすぐったその瞬間
ふわり、と香水のにおいが漂った。
先ほどまで絡まれていた女の物だ。
どれも高級ブランドなのだろうが
混ざってなんだかよく解らない。

それをヒノエは感じ取ってしまった。

「……弁慶、あんた ……女捨ててきたのか?」
「え?」

「あんた、もしかして女と遊んできたんだよな?」
「……まあ、言い方は悪いですがそうなるかも知れませんね」

ヒノエをベッドに座らせ、弁慶も隣に腰掛ける。
かあ、とヒノエの耳が紅くなるのが見えた。

「……」
「どうしたんですか?」

どの言葉に胸を締め付けられる。
別にどうもしないんだ。
コイツに彼女くらいいて当然だ。

だってこんなに綺麗だし 優しいし 頭だって良さそうだし
そうだよ 彼女くらいね……。

「あんた、女は大事にしなよ……っ」

そういう男って最低だぜ?
ヒノエはそう言って無理に笑う。

痛い

「何、勘違いしてるんですか?」

弁慶は嘲笑にも似た笑いを浮かべる。

「……?」
「別に恋人ではないんですよ」

こんなセンスの悪い香りの人とは付き合いません。
と弁慶は笑う。

「僕、接客業のバイトしてるんです。ですから」
「な……」

畜生 何 嫉妬してんだ。
馬鹿だ。
なんで、 なんで なんで

……格好悪い

「……」

黙りこくってしまうヒノエを見て、弁慶は笑った。

ああ、なんて愛らしいんだろう。

「っふふ、君は本当に罪作りですね」
「っ、何言ってンだよ」

弁慶はヒノエの俯く顎を優しく掴んで自分の方を向かせる。
そらせない視線にヒノエは硬直した。
悔しいくらい、綺麗で 怖い。

「僕に謝らなくてはならないことがまた増えた」
「あんたに謝る事なんて、ないね」

ヒノエはふん、とむくれて反論する。
弁慶はクスクス、と笑うと話を進める。

「まず一つ ……君、ヒノエって偽名なんですね」
「ん?ああ、まあね」

表札を見て気づきました。と弁慶は視線を落とす。
その様子にヒノエは少し肩を強張らせた。

「僕に、嘘を付いていたんですね…… 湛増」
「っ……」

低く掠れた それでいて限りなく優しい声で本名を呼ばれる。
締め付けられる感覚。

「……だってさ、今時この名前馬鹿にされるからイヤなんだよ」

ヒノエも、熱に冒されて喉が乾き、声が掠れる。
それに気づいた弁慶は机に置いたビニール袋から紙パックを取り出した。

「名前?僕は別に変だとは思いませんが。まあ、それより何か飲んだ方が良いですね」
「え?」

「君が笑った これ、 ですよ」
「いちごみるく……?」

なんでそんな甘ったるいもん飲むんだよ
ヒノエは呆れて顔を逸らそうとした。
本当は嬉しい

甘い物は嫌いじゃないし、喉も乾いているし
今、栄養は足りていない。ずっと何も食べていない。
でも何か反抗したかった。
なんで謝れなんて言われないといけないんだ。

従うもんか

「……君も強情ですねぇ。全く……少しは栄養取らないと、治りませんよ」

ちっともこちらを向かないヒノエに多少いらだちを見せた弁慶は紙パックを開ける。
ヒノエはアンタが飲めばいいのに と吐き捨てるように告げ、尚そっぽを向き続ける。
ふう、とため息を付くと弁慶はヒノエの頬を強引に掴んで自分の方を向かせた。

「!?」

何が起きたのかわからず、ヒノエは目を白黒させる。
次の瞬間にはもう、ヒノエの唇は弁慶の唇でふさがれていた。

早い。

「……っん」

口内に甘ったるい香りが広がる。
なんというベタな展開だろう 一体何年前の少女漫画だよ。
ヒノエはそう思いながら注ぎ込まれたいちごみるくを飲み干した。
冷たさが喉を通って食道、胃まで感覚が伝わる。
熱に冒された身体が少しずつ冷やされていく。

悔しいけど、気持ちいい。

「ん、 ……ぅ、……っ」

全部流し終えたはずなのに
弁慶は唇を離す気配がない。必死で抵抗して弁慶の肩をべしべし、と叩く。

「ね?意外と美味しいでしょう」
「……っ 何しやがんだよ、馬鹿じゃねえの…ッ!」

ヒノエの口の端からいちごみるくが つ、 と伝う。
弁慶はその様子を見て至極楽しそうに笑った。

「え?僕が飲めばいいと言ったから僕が飲んだんですよ」
「で?なんでこうなんだよ」
「嫌だなぁ。君が早く良くなるようにって」

そう言って笑いながら弁慶はヒノエの口の端を軽く舐める。
瞬間表情を強張らせるヒノエを弁慶はまた 可愛い と思った。

「てか、……あんた、風邪感染るよ?」
ヒノエは申し訳なさそうに言う。

こんな時にまでどうしてこんなに純粋になれるんだろう。この子は。

「あはは そんなこと気にしてたんですか?僕は免疫力強いんです。大丈夫ですよ」

「マジかよ……」

ヒノエはあー。と言いながらパジャマの上のボタンを外す。
弁慶は驚いて目を見開いた。

「ちょっと……湛増。君、僕を煽って居るんですか」
「バ、ッカ違ぇよ!熱いから開けただけ!」

悪化しますよ、と言うと弁慶は開けた先の首筋に軽く後を付ける。
ヒノエは頭を押し返そうと手を突っ張るが、それも熱の所為で力が入らないのか無意味に終わる。

「あんたさ、ホント変態だよ」
「なんとでも言えば良いですよ」

にっこりと不気味なほどにこやかな笑みを浮かべると弁慶はそのままヒノエの肩を軽く押し、
ベッドの上に寝かせる。

「っつ」
「あれ?痛かったですか……。参ったな」

小声で これからもっと痛い事するのにな、 と呟いてみせる。
その言葉にヒノエは総毛立った。

「は!?」
「いえいえ、なんでもないですよ」

「なんでもなくはないだろ!?」

あまりがなると喉を壊してしまいますよ と弁慶は笑いながらヒノエに覆い被さる。
そう来るんだ…… ヒノエはため息を付いた。

「あと、僕に謝らなくてはならないこと  可愛らしい嫉妬をしたことです」

「はぁ?」

「しっかり罪は償って貰いますよ」
「あんたさ、病人相手に何ヤッてんの」

盛ってんじゃねえ。一言吐き捨てると
弁慶はより楽しそうに笑った。

「ねぇ、湛増?荒療治 って知ってます?」

ざわ、と鳥肌が立つ。
ヤバイ コイツ目がマジだ。

弁慶はヒノエの腕を強く押さえつけると
貪るように口内を犯す。
逃げる 追いかける 必ず 捕まえる。

「……ん ……ゃだ、やめろよ」
「……喜んでる癖に。ほら、もう寂しくないでしょう?」

耳に囁きかける。吐息がかかる
反応は上々。熱が拍車を掛けている。
ヒノエは火照って潤んだ瞳で弁慶を睨む。

「湛増、……君はやっぱり」

僕を 煽っていますね 。

「……っ!」

ヒノエの身体が跳ね上がる。
一瞬弁慶を睨んだように見えたその瞳が急に翳りを見せた。

震える指先が弁慶の頬に触れる。
驚いて弁慶はその指先を握った。

「どうしたんですか」

「……て」

「え?」

「……お願い」

涙がヒノエの頬を伝う。
顔は熱の所為だけではなく紅潮している。

「……聞き取れないです もう一度……」

ヒノエは小さくか細く繰り返した。

「側にいて お願い どこへも」

弁慶は静かに目を伏せるとヒノエの瞼に唇を落とした。

「ええ、 行きません。君を置いて どこへも」

 

 

それからの事はもうお互いほとんど覚えていない。

目の前が白く眩んで
ひたすら心地よくて

もう他はどうだって良くて

 

 

 

 

 

明け方、狭い狭い布団の上で弁慶は隣で寝息を立てるヒノエの耳に囁いた。
空はまだまだ青紫色で、スズメが何羽か歌っているだけだ。

 

「湛増?気づいていますか?」

けほ、と小さく咳をする。

やっぱり感染っちゃったのかな。弁慶は苦笑した。

「君の一番の罪は」

 

 

 

 

僕を夢中にさせたことなんですよ。

 

 

 

 

 

「……ちくしょう」
聞こえないように小さく小さく呟く。

 

 

言いたいこといいやがって

 

 

 

 

俺だって すっかり中毒だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

END