「熊野は源氏に付くと思いますか?」
付く なんて言うわけないと知っていて、弁慶はそんな言葉を吐いた。
まるで何も知らないかのように、他の面々の前でしゃあしゃあと言ってのけたのだ。
崩れない美しい笑顔の下にヒノエを蔑んだ嘲笑がちらりと見える。
さあ、どうですか?困ったでしょう ヒノエ。
そう言いたげに弁慶は腕を組み直した。
熊野の実情を知っているヒノエは、はっきりとした答えを出せばどうなるかも知っているし
嘘を付けば全てが混乱していくことも分かっている。
YES NO どちらの選択肢も取らせては貰えない。
「さあ、ね。そういうあんたはどう思う?」
眉をひそめてヒノエは返した。
その言葉の裏に
言えるわけないだろ そんなこと。
という意味を秘めて。
「質問に質問で答えるのは感心できませんね」
おや、意外だな。
弁慶は状況を読んで実状を隠し、上手く立ち回った甥に少し感心して
そんな台詞を吐いた。
よくできました、と言いたげに弁慶は口の端をわずかに釣り上げる。
その笑い方にヒノエは悪寒を覚えた。
自分にだけわかってしまう この男の恐ろしい側面。
柔和な笑みに隠された非情な策士の一面。
「まあ、恐らく源氏にも平家にも付かないでしょうね……」
熊野は中立の立場だろうという読みで、その場の会話は終わった。
どちらにせよ、水軍の頭領との面会がなんとか と言う話になってしまって
ヒノエには不利な状況に事は進んでいく。
その夜のことだった。
……どうしようかな、 頭領の面会がなんとか、……って言ったって
頭領は自分だ。会えるわけないし、いろいろと熊野の連中にバッタリ会って「お頭」なんて呼ばれた日には
あっという間に正体がバレてしまう。
じゃあ、どうするか。 とりあえず影武者を立てて、そいつを頭領ってことにして、
そして……
自室でもそもそと資料やらなにやらを漁って ヒノエは頭を抱えた。
まずいぞ。
「ヒノエ、…起きていますね?」
いきなり襖が開く。驚いて振り向くとそこには あの恐ろしい男がいた。
「……弁慶」
「お茶、入れてきましたよ。少し話でもしませんか」
にっこりと張り付けたような笑顔を浮かべる。
それにひるんでヒノエは肩を強張らせた。
「あ、ああ、ありがとうね…… 適当に座りなよ」
ヒノエももう寝支度を整えていたのに
強引に押し入ってきた来客を押し返す事が出来なかった。
せっかく気遣ってくれたんだし、と自分の情けというか義理人情というかが
冷たくあしらうことを許さない。
そんな自分の甘さが時々腹立たしく思えた。
弁慶がヒノエの出した座布団に座るとヒノエも作業を止めて
敷き布団の上にすとんと腰を下ろした。
「で?何の用?」
まさか夜這いとしゃれ込むかい?
ヒノエはバカにした口調で吐き捨てると立てた膝の上に頬杖を付いた。
「おや、そうだと言って欲しいんですか?」
「悪かった。忘れろ」
ダメだ コイツに冗談通じないんだった。
ヒノエは顔が青ざめていく思いを必死に沈めようとした。
「はは、君は本当に単純ですね」
「うるさい」
「いや、ちゃんとした話をしにきましたよ。熊野水軍の件で」
ヒノエの眼が大きく見開かれる。
水軍の件、か
「だから、どっちにもつくわけないってあんたの読み通りだよ」
「そう、ですか、それは残念ですね…… と言うわけで、気を変えていただけないかなぁ、と」
弁慶は考えられないほど可愛らしく笑う。
まるで子供のように屈託のない笑みを浮かべるのだ。
もちろん演技だ。 ヒノエにもわかった。
「気を変える?」
ヒノエはすすっていた緑茶を吹き出しそうになって慌てた。
声が裏返る。
「はい。その、まあ僕も源氏の軍師として熊野水軍の力はなんとしても得たいわけで、ね」
灯籠の火が揺れた。
弁慶の真剣な眼差しが突き刺さる。
そして、弁慶の言葉が何度も何度も脳裏に響く
源氏 の 軍師 として
わかっているつもりだった。
彼は昔のように荒法師でもなく、薬師でもなく、ただの自分の叔父でもない。
源氏という派閥の軍師という大役を負った優秀な男であることを
わかっているつもりだった。
自分には見向きもしないと 知っていた。
自分は頭領としても人としても至らない。
自分にも他人にも甘くて、重大な決断を迫られたとき一人で決められるかも不安で
あのご立派な軍師の足元にも及ばないと
確認するたび苦しくなった。
でもだからって
そんなに源氏が大事かよ。
「つかないかもね」
「え?」
「うん、どっちにも付かないって言ったら、付かないよ」
ヒノエは飲み干した湯飲みを置くと ふい と視線をそらした。
弁慶は困ったように笑ってヒノエの顎を優しく掴む。
「おやおや、交渉決裂ですか?」
「端から交渉する気なんて、ないからね」
弁慶は はぁ、とため息を付く。
「強情な子ですね、全く」
「協力、しないよ」
「……何故そんなに頑ななんですか」
ヒノエは一言吐き捨てるように呟いた
お前 ばかじゃねえの
「水軍には源氏にも平家にも通じてるヤツがいるんだよ
どっちについたってあいつら、辛い思いするんだ、だから……」
「バカは君ですね」
「は?」
弁慶はヒノエの首飾りを掴んで引き寄せると顔を近づけて言葉を続けた。
「バカだと言ってるんです。誰がどう傷つくですって?ねぇ、湛増……」
「……」
「そんなだからお前は甘ちゃんなんだ」
背筋がぞっとした。
限りなく甘ったるく優しい声で、こんな暴言を吐く。
語尾に丁寧さが無くなる。
弁慶の舌がヒノエの首筋を這った。
「拒めないし、人を傷つけるのを嫌う 君はバカですね」
「っ、るさいな…、あんたこそ非情すぎんだよ…この人でなし」
ぱし、と乾いた音が響いて、ヒノエの頬に鈍痛が走った。
弁慶の冷たい手が軽くヒノエの頬をはたいた。
「……人でなし?ふふ、言ってくれるじゃないですか。そうですね。僕は人でなしです」
「って……、ぇ、何すんだよ、いきなり」
「っふ、あはは…痛い、ですか、そりゃぁそうでしょうね。痛みを与えるために叩いたんですし」
「……わけわかんね……」
急に弁慶の瞳の色が曇り、声色は低くなる。
「良いですか?湛増 これは戦争なんですよ
駆け引き 傷つけあい 殺し合い 騙しあいなんです」
「……!」
「誰が傷つこうが傷つくまいが……同じなんです。
戦というのは人が傷つくことなく終わることなど無い。違いますか?」
「……」
「だから、甘いと言っているんです」
弁慶はふいに優しく微笑んでヒノエの髪を撫でた。
ヒノエの瞳から一滴涙が零れる。
悔しかった。
弁慶が言っていることは間違っていない。
全てが正論なのだ。
自分が甘いと言うこともまた、本当なのだ。
「……だからって、源氏に付く、とは言えないね」
「ええ、そうですね……其の理由は?」
「源氏に絶対的な勝因はあるのかい?……ないだろ?」
ふぃ、とヒノエは視線を逸らしてため息を付いた。
その右耳に、弁慶は囁きかける。
「……勝因は 僕 ということでどうかな?」
「……っ?」
酷く甘ったるい声に、耳元を掠める吐息
ヒノエは軽く身を震わせた。
「……っな、なにそれ」
顔が紅潮していくのがわかる。
熱くなっていく。
「僕がいる源氏です。 ……勝ちます。 これでどうですか?」
「……っ」
冷や汗が額を伝う。
本気でそんな台詞を吐いているんだろうか。
ヒノエは弁慶を怪訝そうな瞳でにらみ付けた。
「なんだよ、それ」
「少なくとも、君には……勝てますよ?頭領殿」
嫌味を存分に含んで言い放つと、
弁慶はヒノエの胸ぐらを掴んで引き寄せ、唇を重ねた。
そのまま歯列を割って舌を滑り込ませ、追いつめるように侵していく。
「……や、弁っ、弁慶っ……」
「なんですか?」
慌てて唇を離したヒノエを冷たい視線で見つめる。
ヒノエはその視線に肩を強張らせた。
「……いきなり、なにすんだよ」
「君は僕に敵わないんだ……ということを教えてあげようと思って」
さらり、とそんな台詞を吐く。
息が上がっているヒノエを尻目に弁慶は口の端を釣り上げて笑った。
「……っ、……」
「どうしました?湛増」
「……っんでも、な……い」
ひやりとした夜風がヒノエの頬を掠め、その熱を冷ましてくれると思った。
なのに、違った。
体は火照っていくばかり
「なんでもない、はずないんだけどな」
弁慶はヒノエの顎をくい、と掴んで目線を合わせた。
潤んだ瞳に、くっきりと自分を映させる。
「ど、……いうこと、だよ」
「盛りました」
「は!?」
その反応に、弁慶はけたけたと笑い始める。
「自白剤といいますか、媚薬、といいましょうか……即効性のものを、ね」
「……、くっそ……ばか、やろう!」
「あはは、何とでも言いなさい。僕を疑わなかったから悪いんですよ」
弁慶はさも楽しそうに笑い、言葉を続ける。
戦とは
騙すこと 殺すこと。
悲しみ 裏切り 欺き 混乱
そういうものである と。
「で?湛増……水軍は 源氏に付きますか?」
「……っく、……ばかやろ……!」
「返事になっていませんよ」
次の瞬間、ヒノエは弁慶の胸ぐらにしがみつく。
ばさ、と弁慶の外套が滑り落ちて琥珀色の髪がさらり、と流れた。
胸元にふわふわしたヒノエの髪がすっぽりと埋まる。
「……け、ない」
「え?」
弁慶は自分の胸元が次第に濡れていくのがわかった。
次から次へとあふれ出す涙を自分の胸に押しつけている
一つの水軍の頭領とは思えぬ少年の姿を目の当たりにした。
「わけ、ないだろ……!?」
吠えるように、ヒノエが叫ぶ。
弁慶は驚いて目を見開きヒノエの頬に手を当てた。
熱い。 火照っている。
効きすぎてしまっただろうか
「わけ、ない、よ」
「湛増っ…?」
「あんたのこと、 ……疑うとか 嫌う とか、 出来ない」
「……どういう、ことです」
ヒノエは顔を上げて弁慶を見据えると次から次へと言葉をこぼしていく。
「あんた、がここからいなくなったときも そう、 だった
帰ってくるって すぐ 戻る って、 言って 戻っ て こなかった 源氏のお抱えになって、さ」
「ヒノエ」
「……嘘、つかれた、 のに 俺はあんたを
嫌いになれないんだ 」
悔しそうにそう告げると、ヒノエは弁慶の胸に顔を埋めて泣き始めた。
弁慶もヒノエを抱きしめる腕に力が入る。
「湛増……っ。ごめんなさい……」
弁慶は初めて謝罪の言葉を口にしてヒノエの額に口付けた。
涙でぐしゃぐしゃになっている顔をヒノエは右の手のひらで覆って答える。
「そんなで、誤魔化せると 思うな」
「湛増っ」
「俺は ……源氏しかみてないあんたなんか嫌いだね!」
「……え……」
「戻ってきたあんたは源氏の軍師としてしか動かない。そんなあんたは嫌いだ」
嫌いなはずないとか、嫌いだとか、本当のところがどうなのか
ヒノエにさえわからなかった。
その想いを、弁慶は手に取るように読みとる。
「……僕は……」
「あんたは、源氏の御曹司とでも仲良くしてればいいんじゃない?」
その言葉に弁慶はクスクスと笑う。
「全く 何勘違いしてるんですか?僕は源氏でも平家でも本来どちらでも良いんです
この長く苦しい戦が終わるのならば 僕はどちらが勝っても構わないんです。源氏を捨ててもね」
ヒノエは目を丸くしてぱちくり、と瞬きを繰り返した。
「ちょ……な、何言ってんのあんた……」
「ですから 僕は源氏なんてどうでもいいんです」
「待てよ!そういうの、最低……ッ」
言いかけたヒノエの唇に己の唇を重ねて弁慶は紡がれる非難の言葉を掻き消した。
涙目でにらみ付けてくるヒノエににっこりとほほえみかけて、ゆっくりとなだめるように囁く。
「……平家は怨霊を作る。このままでは世界が乱れる。
どちらかと言えば源氏が勝った方が良い。だから源氏に付いているだけです」
「……」
「源氏が好きとか平家が好きとかそんな情で動いていては……足下をすくわれますよ」
もっともだ。返す言葉もない。
ヒノエは下唇をきゅっとかみしめると弁慶から目をそらした。
「湛増」
弁慶は急に優しく呼びかける。
その声の違いにヒノエは驚いて顔を上げた。
「妬いてくれたんですか?」
「ち、違っ!」
慌てて否定の言葉を叫ぶも、次の弁慶の言葉に
やんわりと飲み込まれる。
「湛増」
「っ……」
「好きですよ」
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