朝霧

 

 

「平家に寝返る計画を練っていたんです」

望美が弁慶の口からその言葉を聞いて何ヶ月か。
ついにその日がやってきてしまった。

あのときは、冗談だと思っていたのに。
望美は知りたがりな自分をからかおうとしたのだ、と思ったのに。

 

「おとなしくして貰えますか」

酷く冷たい眼だった。
望美の右腕に弁慶の長く整った指が食い込む。

このひと 本気だ。

望美は冷静になろうと懸命に頭の回転を速めた。
どうしたらいい?逆鱗を使って戻ればいい?
否、違う 今戻っても結局先が見えなくて また同じ事になる。

どうしたらいい?このままみんなを置いて、私は弁慶さんと行けばいい?
みんなは安全に過ごせるのか。

それならいい。仕方ない

 

「弁慶!それなら、俺を連れて行けばいいだろう!」

九郎が叫ぶ。

真剣な九郎のまなざしに対して、弁慶は冷笑を浮かべた。

「馬鹿な子ですね。君には何の価値もないんですよ」

九郎は目を見開くと、そのまま握り拳をぐっと握り、叫んだ。

 

「……弁慶ッ!!お前だけは許さん!!」

九郎は怒鳴りつけて精一杯虚勢を張るが、その瞳には涙があふれていた。
つ、と一筋 もう一筋 頬を伝っておちる。

信じてきたのに ずっと ずっと頼りにしてきたのに
誰より共に居てくれたのに

どうして

どうして俺を裏切る?弁慶。

 

弁慶は望美をつれてその場から離れた。

もちろん、源氏方の面々はショックでなにも言えず
しばらくは呆然としていたのだが

なんとしても望美を救いださんと今立ち上がろうとしていた。

 

 

 

一方、弁慶と望美は船の上。

「様子を見に来ました」

いけしゃあしゃあとそんな台詞を吐く弁慶を望美はにらみ付けた。

「どういうつもりなんですか、弁慶さん」

「え?」

弁慶は聞き返す。
どういうつもりも何も、君を利用しようとしているだけですよ。
と答えると望美は静かに首を振った。

「違う」

「……」

「そんなことないでしょう、弁慶さん。あなたはいつも何かを抱え込んでいる」

「……」

「今回のことだって 何か……」

弁慶は笑いを堪えるようにして肩を振るわせた。
そしてついに、いつもの穏和な笑みからは想像できないほどの声で爆笑してみせる。

「クク……あははは……!君は素直すぎる。そう、面白いほどに」

「な……どういうことですかそれ」

望美は急に不安になって後ずさる。

「ふふ……ねぇ、望美さん。僕が優しい軍師とでも思いましたか?
 僕は自分の目的を果たすためなら手段を選ばない。そう、他に何を失ってもね」

弁慶は、さっと髪を掻き上げるとため息を付いた。

「だから、君のことはもうどうだって良い。九郎のことも」

「……弁慶さん?」

弁慶はくるりときびすを返すと船から離れて行ってしまった。

ああ、これからどうなっちゃうんだろ。
望美はハァ、とため息をつく。

弁慶は自分の乗る船の上で同様にため息をついた。

そう、どうでもいい。どうだっていい。
源氏の仲間がなんだろうが、もういい。
誰が僕を憎んでも知った事じゃあない。
九郎も 神子も みんな みんな 。清盛さえ打てれば

 良い。自分なんかどうなったって。

でも一つ 気がかりがある

あの甘ったれで自分一人じゃ何一つ出来なくて
泣き虫で すぐにじゃれついてきて

女好きなふりして背伸びして

真っ赤な髪の毛を風にゆらして 走り寄ってくる

彼のことは気がかりだ。

 

僕が消えたら 彼は どうするんだろうか。

「ヒノエ」

小さな声で誰にも聞こえないように名を呟く。

君は僕を憎んでいるだろうか。

 

 

もう 会えない

 

 

 

 

数日後、望美は牢に移された。
なんて惨めなんだろう

怨霊はうろついてるし警護も万全

もうだめかも。

望美はため息を付くと静かに目を伏せた。

 

その頃、源氏方、ヒノエは必死になって水軍を配置し
望美の居場所を探すべく尽力していた。

焦る。

毎日情報をつかんで帰ってくる水軍の仲間。
けれど望美の の の字もでない。神子の み の字さえ。

まさか、殺されてねぇよな?

ヒノエは自分の手が震え、冷や汗が伝うのを感じた。

望美 生きててくれよ 絶対俺が助けるから。
ヒノエは何度も心に誓った。

けれどそれより胸を占めるこの気持ちは何だ?
占める 締める 締め付けてくる。
あいつがいなくなって、どうしてこんなに空な気持ちなんだ?

酷く傲慢で 意地が悪くて 賢くて それ故俺を馬鹿にする
女の扱いにはホントに慣れてて それでいて誰にでも好かれて
本性は巧みに隠し、いつだって柔和な笑みを浮かべていて
男の俺が嫉妬するほど容姿は端麗だし
物腰が柔らかいと思ったらやたら馬鹿力で

いつだって俺をからかってた。

毎回毎回嫌がらせしてきて

なのにそのくせ優しくて 

どうしようもないヤツ

アイツには敵わない

 

繊細な髪の毛 今までいろんな宝石を見てきたけどそれに劣らない美しさの瞳
白磁の肌

あり得ないくらい優しい声

少し低い体温

 

 

悔しい  

 

恋しい

 

「……弁慶……どうして」

独り膝を抱える。

今日は満月だった。
やたら綺麗だ。
こんなに悲しいのにそんなことと関係なく月は綺麗だ。

 

「お頭ァ!!」

水軍の男の声がした。
いそいで部屋を出て駆けつけると、息を切らした若い男がニッと笑った。

「見つけやしたぜ、神子様の居場所を……!」

「本当か!」

「男に二言はねぇですぜ!」

明日向かおう
水軍と約束した。

望美、必ず助けるから。

 

……弁慶、会えるか?お前と。

 

 

 

 

翌日、ヒノエは水軍と自分だけで出かけることにした。
万一、それが罠なら困るし。
大勢で押し掛けるのは得策でないと思ったからだ。

岸に船を止めて、水軍を待たせる。

「なんかあったらすぐに連絡する。日が落ちるまでに戻らなかったら、探して欲しい」

そういうと、ヒノエは駆けだした。
情報によると、この近くに牢があってそこに望美がいるとかいないとかだ。

どこだ?

ヒノエははやる気持ちを抑えて近くにあった洞窟に探しに入った。

洞窟は狭く短い物でそこにひとつ、鏡が転がっていただけだった。

ちがう、ココじゃない。

鏡を拾い上げるとヒノエはそれを覗き込んだ。
割れてる。

なにか曰く付きの物だ。
それを手にとってヒノエは洞窟から出た。

見覚えがある影を見つけた。

 

黒い外套 すらりとした体型。
薙刀。

 

片足を引きずりながら歩いている。 こちらへ向かって。

 

 

「……弁慶?」

呼ばれた彼は俯いていた顔を上げる。
苦しそうに眉をゆがめる彼の顔が、ヒノエの瞳に映った。

「ヒ……ノエ……?ヒノエ、ですね?」

名を呼ばれて、その声を聞いてヒノエは走り寄る。

 

「馬鹿野郎!お前、なんでこんなこと、して……」

ヒノエが首に腕を回して抱きつくと、弁慶は自嘲の笑みをこぼした。

「ふふ、君に馬鹿と言われるとは 僕も堕ちたものですね」

「え?」

「僕は…… もう、ダメみたいです」

弁慶は力無く笑った。
ヒノエはその表情に愕然とする。

どうして?どうしてそんなことを言うんだよ。
いつも強くて、余裕があって

弁慶?

 

「どういうことだよ、弁慶」

ヒノエは己の身体が不安に震えるのを必死に押さえて尋ねる。

「何がダメなんだよ、望美をさらって、俺達を裏切って、お前」
「ええ、僕は裏切り者です。もう、戦が終わればどちらが勝ったって構わないんです」

そう毒づくと、弁慶は苦痛に顔をゆがめた。
ごほ、とひとつ咳をする。口に当てた左手に、血が滲んだ。
ごほごほ、ともう一つ。左手が紅く染まっていく。

「弁慶!?」

「ぅ……」

弁慶が低く呻いた。
息を切らせて苦しそうに瞳を閉じる。
左胸を押さえてその場に頽れた。

「弁慶!弁慶!?」

ヒノエはただならぬ様子に動揺を隠せない。
なんでこんなに衰弱しきってるんだコイツに限って。

「……ヒノエ、なんて顔、してるんですか」
「だって、……だってアンタ死にそうじゃねぇか、どうして……!」

弁慶は自嘲の笑みを浮かべると、しゃがみ込んで自分の肩を揺すってくるヒノエの左手を取った。

つめたい。

弁慶の手が酷く冷たい。両手で包み込むようにして握られた左手に
弁慶の低い体温と、生暖かい血液の温度が伝わった。

「僕は……君には嘘をつけないんですね」
「……え?」

弁慶はふ、と笑うと弱々しく話を続けた。

「僕の中に 今 清盛の霊が います…。 この方法しかなかったんですよ。僕ごと清盛を浄化する」

ヒノエは自分の体温が一気に下がっていく気がした。
どうしてそんなこというんだよ。

浄化?どういうことだよ

「ヒノエ、鏡……八咫鏡、持っていますね」

「え、これ、か?」

ヒノエは持っていた鏡を手にとって見た。
割れている。

「これがどうかしたか?」

 

「それは、浄化する力を持っている。ヒノエ。その光を僕に当ててください」

弁慶は決意したようにヒノエの手を握った。
ヒノエは驚いて弁慶の顔をのぞき込む。

「どうして」

「どうしてもです」

「……」

 

弁慶は不安そうなヒノエの顔を見てクス、と笑う。
ヒノエの猫っ毛を優しく撫でると、囁きかけた。

「大丈夫。大丈夫ですよヒノエ。それに清盛公が僕のなかにいては不便です」

「本当だな」

「ええ、本当です」

 

ヒノエはようやく決心が付いたのか鏡を弁慶に見せた。
弁慶は小さく読経し始める。

どこからか、清盛の叫び声が聞こえた。 気がした。

『おのれ、弁慶!許さん……!!』

許さなくたって良いんですよ。貴方はもう死んだのですから。

 

……そして、僕も。

弁慶はため息を付いた。
そうだ。自分も

 

弁慶の姿が徐々に徐々に薄くなっていく。

透き通っていく。

 

「弁慶!?」

「ヒノエ。……君は最後まで僕に騙されてくれましたね。本当にカワイイ子だ」

淡い光が弁慶を包んでいく。
浄化の光だ。

神子が怨霊を封印するときに舞う光に似ている。

弁慶の瞳が翳る。
ヒノエは怒りに目を見開く。
同時にぼろぼろと涙が零れた。

それはまるで幼いコドモのように
それはまるで恋人を失った姫のように

夕日色の瞳からぼろぼろと止めどなく涙が流れていく。

「あんた、……俺を騙したんだな」

「ええ」

「……行くなよ」

「ふふ、流石の僕もそれは無理です」

ヒノエは声を荒げて何度も叫んだ。

行くな 俺を置いてくな どうしろっていうんだよ

 

「ヒノエ……」

ヒノエは弁慶の手のひらを掴もうと手を伸ばした。
けれどすでに実体を消しつつある彼には届かず、虚空を掴む。

泣きじゃくるヒノエの額に
今までからは想像も付かないくらい優しい慰めるような口づけを落とすと、
弁慶は苦しいくらいに優しく微笑んだ。

「大好きですよ。湛増」

「……!」

声にならない悲鳴を上げる。
ヒノエは消えゆく弁慶の笑顔を瞳の奥に焼き付けられて
その場にへたり込んだ。

 

全て消えてしまった。

 

綺麗な眼差しも 吐き気がするほどに甘い吐息も

意地の悪い口調も  馬鹿にしたような視線も

暖かい口づけも  想像も付かないくらい強かった握力も

 

声 体温 色 気 力 香り 

 

全て

 

『大好きですよ。湛増』

言葉が何度も脳裏を巡る。

 

今は もう いない

消えてしまった。

 

あんなにもあっさりと

 

「俺の手で?」

震える手をヒノエはじっとみつめた。

 

 

 

 

 

「ヒノエ君!!!」

遠くから声がする。
弁慶じゃない 女の声だ。

優しくて強くて 気高い彼女だ。

「……望美……」

「ヒノエ君……?」

「望美、無事で良かったよ。……遅れてごめんな」

ヒノエはごし、と瞳を拭い望美に笑いかけてみせる。
望美の手や足は傷だらけになっていて、あちらこちらから出血している。

「あ、……ううん!私なら平気だよ」

「でも、大丈夫か?血が……」

「あー……牢を蹴破ったからかな、急に怨霊が消えたから……ちょっと頑張ってみたの」

えへへ、と望美は無邪気に笑う。

 

「それより、ヒノエ君?どうしたの?すごく辛そう」
望美はヒノエの頬を撫でた。

つ、と涙が零れる。

 

情けねぇ。

望美のまえで泣くなんて。

 

「望、……美。……」

「ん?」

望美は流れる涙を優しく拭う。

この感触 あまりにも似すぎていた。
弁慶。

 

「ごめ…… 俺 ……ごめん……」

泣くしかできなかった。
本当に情けない。
囚われて辛い思いしてたのは望美なのに。

情けない。

「うん、ヒノエ君大丈夫だよ。何でも話して良いよ」

望美はそっとヒノエの肩を抱きしめる。

だめだ。 そんなに優しくするな。
止まらなくなる。涙が 涙が押さえきれない。

「べんけ…… 弁慶が 死んじまっ……」

「え……」

望美の表情が強張る。
弁慶さんが?

 

「あいつ、……独りで 抱え込んで、みんなに 内緒で 清盛を取り込んで」

嗚咽を交えながらヒノエはとぎれとぎれに言う。

「自分ごと、 浄化 し やがっ」

 

 

 

『大好きですよ。湛増』

声が 香りが

目を閉じると蘇る。

鮮明に あの言葉が。

 

「……っ、ダメだ、俺。ごめん っ。……っ ごめんな、望美…っ」

 

「ヒノエ君……」

望美の肩にもたれるようにしてヒノエは声を上げて泣いた。
泣いても泣いても枯れないんじゃないかと。

泣いて。 泣いて。

 

『大好きですよ。湛増』

馬鹿野郎。最期にそんなことば残しやがって。

最期の最期まで俺を傷つけて。

 

馬鹿野郎。

何が大好きだ。

 

こっちはまだ返事もしてない。
返事に対する揶揄も聞いてない。

 

 

 

 

 

 

「……ヒノエ君。大丈夫。私が必ず……」

 

望美はそう言うと逆鱗を握りしめた。

 

 

変えてみせるよ。

 

その一言を抱き込んで浜辺は白く光る。

 

 

 

お願い。

変えて

 

独りにしないで。

 

 

 

 

 

 

END